先日、次女を伴い、倉敷のM君を訪ねた。昨秋亡くなった大親友のM君である。彼は、次女の医学部受験を心から応援してくれていた。あと少し待っていてくれたなら、報告できたのに。祝杯を挙げることも叶わなかった。4月から岩手の地に発つ彼女に、心新たにすべく、奥様を訪ねた。相変わらず笑える、親指を立てた遺影。彼らしい。奥様も大変喜んでくださった。数年前にジョニー久保田、そして昨年のM。相次いで心の支えだった友を亡くし、正直「もうどうでもいいや」と考えている自分がいる。よく「彼の分まで生きる」というドラマのセリフがあるが、あれは嘘だと思う。そんな気持ちは起こらない。「次は俺か。まぁそれもよし。」と思うのみ。まぁ今死んだら、子供たちが困るので、せめて末が大学卒業までは生きておこうとは考えるだけ。短命な家系だから、生に対する執着が元々薄いのかもしれない。ただ長生きすることだけを考えている人の気持ちはわからない。もちろん否定しない。明日の朝目覚めることなく死んでいても、それでよしとする毎日を送る事、それだけである。M家を辞した後は、M夫妻に案内されて、ジョニーとともに食した、讃岐うどんの店へ。瀬戸大橋から見える瀬戸内海の風景は雨に煙り、幻想的ですらあった。讃岐うどん、やわらかくしかも腰があり、喉越しもよろしく、おいしくいただきました。二人のいい供養になった。