昨日の夕刊によると、来年から重症患者を入院させる高報酬の病床を削減するとのことである。重症でない患者まで入院させているためとか。医療費を削減する動きと報道されている。何をいまさら。以前の報酬改定で、病院の差別化を図ったから病院は生き残るために看護師をかき集めたのである。割を食ったのは私たち開業医である。極端な看護師不足に陥った。ほんと厚労省は文部省とならんで、現場の事が何もわかっていない三流官庁であると思う。ただこの問題の本筋ではない。これはきたるべき2025年問題への布石である。2025年。団塊の世代が後期高齢者になる年である。多死社会の到来である。現在年間120万人の方が亡くなる。2025年にはそれが160万人になる。40万人分の「死に場所」を確保する必要があるのである。一日に千人亡くなる方が増えるのである。今のままでは入院すらできない。そこで重症患者が入院すべきベッドをそれであてがう方針なのだ。これは自宅で亡くなる方が増えないという現状もある。これも増やそうとはするだろうが、難しいだろう。「人間、死ぬときは死ぬ。」という宗教的覚悟が現代の日本人にはあまりないように思うから。生きるとはどういうことか、ひとりひとり見つめなおす必要があるのではないか。とにかく死に際で入院がかなわない世の中が迫ってることを自覚してほしい。さらに言うならば、斎場も死人で溢れることになる。自治体は新しい斎場を造る必要に迫られているが、ことごとく住民の反対運動にあう。そのうちに24時間稼働しなければ、お骨にもしてもらえない悲劇がやってくるかもしれない。すべてわが身に降りかかるのである。宮型の霊柩車を見なくなって久しい。これも葬儀場近くの住民が「縁起悪い」と反発したためである。馬鹿である。人間死ぬ時が一番尊いのである。街行く見知らぬ霊柩車に向けて、手を合わせていた日本人はどこへいったのか。醜い人間ばかりが増えていく。